( 8 ) 再び確認された石塔
「奥西山さんぽ」で確認した石塔のNO.1で最初に取り上げた萬延元庚申歳(年)」(西暦 1860年)の「光明眞言一百萬遍供養」の塔のすぐ左隣に野ざらしで著しく風化した板石が建っています。最初はあまり気にも止めなかったのですが、多くの供養塔群中に有りながら、最も中央の正面に位置していた為に、この度、改めて調査を致しました。
石塔は、永年の風雨と天災によって、頂部が大きく破損し、3段目あたりにき裂が認められます。石塔の現高は115.5cm、横幅66.5cm、厚さ(奥行)19.0cmです。印刻された文字は、コケ類の付着が著しく、解読には困難と思われていたのですが、判明した内容は以下の通りです。
やや平らな正面中央に縦に隅丸長方形に浅い平面を刻出し、中央頂部にキリーク(千手観音菩薩又は阿弥陀如来)の梵字を陰刻しています。その下に奉納大乘妙典六十六部日本廻国供養と陰刻されています 。そして右には天下和順(てんげわじゅん)、左には日月清明(にちがっしようみょう)とあります。
また、中央にある平面、その外部にあたる右側に寛政十午九月吉日と記します。左側には當所行者 久太夫と刻んでいます。以上により建立は、地元の久太夫とその関係者が行ったと考えられ、寛政十年(1798年)の戊午(つちのえうま)年であったと分かります。
なお、この度の調査によって、当地の某人物(久太夫)が「法華経」を書写し、六十六部廻国し、各国に一部づつ納経し、満願したことを示す その根拠の石塔と判明しました。当時の信仰をめぐる慣習を示唆しています。その上、この供養塔は、当該地域では最も古くに建立された石塔で、極めて大きな意味があります。
法華経六十六部廻国記念の供養塔
即ち、18世紀末の江戸時代に、この地の人も全国六十六カ国を巡礼し(旅をして)、各国に納経していた事実を裏付けているのです。特に寛政十年当時には、日本全国が平和に安定し、安全に、安心して旅ができるようになっていた事実が理解できます。
そのために極めて貴重な石塔であり、今回の調査により詳細が分かったことは極めて大きな学術的成果でした。
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