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千種の古城を確認する会

往古の時を超えて輝く遺構!「奥西山さんぽ」で確認した遺跡 No3

 新たな驚きの大発見(再び・・・)


(1)「鉄穴流し」の問題点

 江戸時代に吉備地方や出雲地方・伯耆地方で行われてきた「比重選鉱法」による真砂砂鉄を採取する鉄穴流しの操業は、我が国の製鉄業に大きな貢献が有りました。しかし、一方では大きな問題も引き起こしました。「鉄穴流し」は大量の土を切り崩し、下流に流すため、多くの土砂が下流域に堆積し、川床が高くなって天井川となったために、大雨や大雪が降ると、洪水が発生し、住民の家屋や田畑を荒廃させることとなりました。今で言えば公害です。そのために、しばしば鉄山関係者と農民との間に対立が起こり、各藩ともその解決に苦慮しています。

岩吹製鉄遺跡「鉄穴流し」跡上流の谷川



(2) 過去にこんな事実が・・・。

 あれは確か昭和41年秋の事で有ったと思いますが、岡山県の某大学に所属されている教授が、佐用町に来られて、「鉄穴流しの遺構は何処かに、ありますか?」と聞かれたが、当時の佐用町内においては製鉄遺跡の分布調査さえも未実施であったため、「鉄穴流し遺構」の存在等は全く不明でありました。そこで「今は調査が未実施なので所在は分かりません。」と答えた。すると「播磨地方では何故か鉄穴流しに伴う鉄山師と百姓との対立が見られない、何故なのでしょう。」と言われた。そこに居合わせた者は皆、その頃あまり「たたら製鉄」に関心がなかったために、そのまま無言で聞き流したのでした。

 昭和49年には佐用町西下野製鉄遺跡の調査が始まりました。この遺跡は4カ所から製鉄炉が発見されたのですが、1基の炉横から真砂砂鉄の堆積が確認されました。しかし、近辺に「鉄穴流し」を行った場所は無く、近世製鉄の諺に「粉鉄7里に、炭3里」とある通り、相当遠く(七里=約21km)より真砂砂鉄の運搬が行われたと考えたのでした。



(3) 千種町天児屋鉄山の確認調査

 昭和58年夏に遺構の確認調査が始まった天児屋鉄山の本体は、所謂「永代たたら」の大型炉でした。即ち、大規模な地下室を設けた炉で、しかも本床の両側には小船を設け、内部は木灰と小片の木炭が敷かれていました。しかし、炉の上部構造は、後世の造成によって削り取られ、詳細を知ることはできませんでした。なお、炉の南側には水車フイゴの水路を伴ったと思われる石積の池状遺構が確認されました。一説では、これは灼熱の鉄を冷やす「金池だ」という意見も出されました。

 さて、調査中に現地視察で来られた地元の研究者であった(故)鳥羽 弘毅さんは、質問され、「砂鉄は何処で採ったのか?」と、「そこは鉄穴流しの跡だけだったのか?」と聞かれたのを、調査現場の誰もが確かに聞いていました。「天児屋鉄山」の上方には「鉄穴流し」の「走り」と「池」が存在していました。質問の返事としては、それだけの説明をして終わったのを皆んなが今も憶えています。

 その後、(故)鳥羽氏は、播磨地方の「鉄穴流し」で鉄山師と農民の軋轢が無いのは、(1) 冬の時期に操業し農産物には被害が及ばないこと、(2) 百姓は「たたら製鉄」関連の仕事を受けて、駄賃(報酬)を得るために鉄山師と至って親しい関係にあったこと、そのような理由が対立を生まない原因だったと主張されてきました。



(4)「奥西山さんぽ」で確認した土砂堆積場

 去る令和2年11月8日(日)に行われた「奥西山さんぽ」では、一連の「岩吹製鉄遺構」を視察・確認することと、なりました。国道429号線の志引峠側から流れる谷川と島谷方面から流れる谷川が合流して西山川となります。この遺跡は、その合流地から志引峠方面に約800メートル遡った地点に存在します。先ず最初に目につくのは、国道に接したやや平らな場所で、太さがヤカン大の杉が群立した地点です。元はここも小高い丘であったと思われますが、今は「鉄穴流し」の為に削られて平地になったと考えられます。この平地の両側には谷川が流れており、ここから水を引いて「走り(比重選鉱法により砂鉄と土砂を分離する水路)」としたようです。 即ち、花崗岩質の山肌を切り崩し、水路 (走り) に落とし込んで下流に流し、砂鉄と土砂を分離したのです。「走り」の水路は下流へ約120,0メートルはあるでしょう。

「鉄穴流し」跡の1段目に当たる大池


 続いて「走り」の下流には3段の池が存在します。『鉄山必要記事』にも記載のある「大池」・「中池」・「乙池」です。ここで一段と細かく砂鉄と土砂を分離して、不純物の混じらない80%に近い純度の砂鉄を採取していたと考えられます。最初はこの3段「洗い場」に至る池で、遺構は終わりだと思っていたのです。

 しかし、「奥西山さんぼ」を契機に改めて確認すると、三段目の池で砂鉄を採った後に、 排出した土砂について、これまではズッと下流に排出していたと考えられていたのですが、上から4段目に積み上げていた事実が判明したのです。即ち、排出した土砂を下流に流さずに、「土砂置き場」に積み上げていたのです。それも低い南端では高さ約11,0メートルもあると思われる高さまで大きな石積みを行い、下流に土砂が流れないような施設を造っていたのです。各地で間題となってきた「鉄穴流し」による公害問題について、前もって対策を講じていたのです。ここでは「鉄穴流し」に当たって自然地形を巧に利用し、災害を防ぐ対策を実施していたのです。

 今日まで数多くの「鉄穴流し」場を見てきましたが、全国的にもこのような類例にあったのは初めてで、大きな驚ろきでした。今後の播磨地方における「鉄穴流し」の遺構調査では、 公害対策の付属施設も考慮した新たな調査手法が必要となります。

土砂止めのため積み上げられた石垣



(5)凝縮された「たたら製鉄」の各工程

 「鉄穴流し」が存在する小丘は、東の方へ約40,0メートルも続きます、更にこの東は緩傾斜地、そして谷川となっています。ここの製鉄炉の操業では、流れ出た「ノロ」の固まったものや「炉壁」、また、不純物を含む「銑鉄塊」は粉砕して細片化し、一括して「鉄滓 (てっさい=俗称 カナクソ)」捨場に積み上げています。また、この「鉄滓」拾場の約9,0メートル北には表面観察でも判別できる排水溝が確認されました。間違いなく、この排水施設と 「鉄滓」捨場の中間には本体の 「たたら炉」が存在すると推定されます。炉は「野たたら」方式と考えられ、形状は「西洋風呂」様で、長軸が緩斜面に対して直行する方向に位置していたようです。


鉄滓捨て場に堆積するノロ片・炉壁・鉄滓片の状況


 東西約80,0メートル、南北約550,0メートルの範用内に、「真砂砂鉄」の採集場、「比重選鉱法」による水路である「走り」、純度の高い砂鉄採集の大池・中也・乙池、そして4段目の不要土の堆積場、更に「野たたら製鉄炉」と「鉄滓」捨場が整然と残存していたのです。小規模でもありますが、昔の凝縮された製鉄に関する「コンビナート」の遺跡とも言えます。

 機会があれば、近い将来に学術的な発掘調査を実施したいと企画しています。調査によって、新たに貴重な「鉄」を造った工程、その実態がさらに細かく明らかになると考えています。



(6)終わりに一言

 昨年度より県補助を受けて、奥西山自治会ではソフト面を主体とした「活力のある村づくり」を、多くの村人と地道に取り組んできました。特に「奥西山さんぼ」と呼称しての文化財調査は、全国的にも誇れる大きな成果を得ました。この実績は極めて貴重な内容で、高く評価されると思われます。

 この成果は、確実に次世代にも引き継ぎを行ない、未来の新しい村づくりに役立てていきたいと願っています。

                                 以上



追記 = 「記載内容は著作権で保護されている部分があります。」



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