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千種の古城を確認する会

(附) 千種町下河野 砂子の「道標」

 千種町下河野の岡の西に位置している砂子の道標は、花崗岩の自然石を利用しています。高さは92,0cm、横幅は52,5cmで、奥行(厚さ)22,0cmです。今は山裾に建っていますが、元はやや北の畑中に北向きに位置していたと考えられます。中央の最上部に「胎蔵界大日如来の梵字(アーンク)」が刻まれており、その下に「光明真言供養」と陰刻されています。また、右側に「右ハふなこし」、左側は「左ハやまさき」とあります。更に左側の側面に「文政六」、その横に「未(ひつじ)」と刻まれています。


千種町下河野「砂子の道標」の調査



 道標の有るこの地点から右の千種川に沿って下っていくと、現在の船越山瑠璃寺が有ります船越、そして三河地区に至ります。左に進むと山の中腹を緩やかに登りながら南方の阿踏地区に至ります。一方、ここから東に迂回しながら塩地峠に至ります。塩地峠から東には相当急な下り坂となっており、そこを通過して小河内の村を経て大沢へ、更に下るとやがて塩山に至り、また、土万にも出ます。


千種町下河野の砂子に位置する「道標」


 山崎町大沢には水成岩質の粗末ではあるが、貴重な「道標」が野ざらしのまま建っています。現在は全体の約三分の一程度は埋めたてられ、石塔の正確な高さや下部の刻銘は見ることができません。しかし、千種町の『二十周年記念誌』等の記載より推定しますと、高さは約124,0cm、横幅は46,0cmで、奥行(厚さ)は26,0cmです。正面の右上は何時の頃からかは分からないのですが、上から右下にかけて一部大きく欠け落ちています。「道標」は、やや東向に建っていたと考えられますが右側には「右 大さわ」、左側には「左 ちくさ」と、更に中央最下には「みち」と薬研堀りの太い字で陰刻されていたようです。また、左側面には明治十三年とあり裏面には「志 之」と刻まれています。

 この「道標」については、過去に千種町の『二十周年記念誌』の記載のみでなく、山崎郷土研究会等が、既に調査、保存を図っていたと思われます。それは隣接して新しい石塔(「史跡 千種鉄の道塩地峠」)が建っていることです。

 以上の2カ所の「道標」によって、江戸時代後期から明治20年頃にかけて、山崎町内と千種町の間における人々の行き来が明確に想定できます。即ち、「たたら吹き製鉄」の操業によって生産された「鉄」の運搬、これのみの往来だけで無く、遠くは加古川や明石方面からも、「西の行者山」や雨乞いのために「鍋が森神社」に向けて、信仰厚く参拝する人々が使用する大切な「道」でもあったのです。


山崎町大沢に位置する「道標」


 特に、その経路は山崎町まで来て、その後に山崎町市場・上牧谷・山崎青木・塩田・葛根を経由し、塩山・大沢に至ったと考察できます。大沢からは、塩地峠を越した後に、千種町下河野の砂子・そして七野大橋袂まで辿り着いたと考えられます。「大橋袂の道標」から千種町奥西山の「堂坂の道標」に至る経路は既に記述したとおりです。

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